田部井淳子さんのプロフィール
田部井淳子(たべい じゅんこ)は1939年9月22日、福島県田村郡三春町に生まれました。7人兄弟の末っ子として育ち、幼少期は病気がちで体育も苦手だったといいます。しかし、野山で遊ぶことが大好きな少女でした。1962年に昭和女子大学英米文学科を卒業後、社会人山岳会に入会し、本格的な登山活動を始めました。後に2000年には九州大学大学院比較社会文化研究科修士課程を修了し、研究テーマは「エベレストのゴミ問題」でした。
1967年に田部井政伸さんと結婚し、一男一女をもうけました。家族を大切にしながらも、登山への情熱を持ち続け、世界各地の山に挑戦し続けました。2016年10月20日、腹膜がんのため77歳で埼玉県川越市の病院で永眠しました。
田部井淳子さんの登山家としての道のり
山との出会い

田部井さんが山の魅力に初めて出会ったのは小学校4年生のときでした。担任の先生が夏休みに希望者を栃木県の那須山茶臼岳に連れて行ってくれたのです。そこで見るもの触るものすべてが驚きの連続だったといいます。
「夏は暑いはずなのに山は寒いことにびっくりしました。また、いつも遊ぶ里山は木々が生い茂っていましたが、茶臼岳は火山のため、途中から岩だらけでゴツゴツです。山道の横を流れている川にはお湯が流れ、石でせき止めれば温泉になることにも感激しました。そして登りつめた頂上から見下ろす風景の美しさにとても感動しました。『山に登るってこんなに素晴らしいことなのか』。それを強い衝撃として感じたのがこの茶臼岳登山でした」
この初めての登山体験が、後の彼女の人生を決定づけるきっかけとなりました。
女子登攀クラブの結成
1969年、田部井さんは「女子だけで海外遠征を」を合言葉に女子登攀(とうはん)クラブを設立しました。当時、登山は男性中心のスポーツでしたが、彼女は女性だけのチームにこだわりました。
「気兼ねのない女性だけのメンバーで海外の山に登りたいといつしか思うようになっていました。女性と男性では体力も違いますし、体格差がある分、登るペースも同じではありません。私が男の人と登っていたときは歩幅が違うためいつも小走りでした。それに男女が一緒だと着替えやトイレなどお互いに気を遣い合い、その気遣いの積み重ねがストレスとなり、危険を伴う登山ではリスクにつながることもあります。」
1970年にはアンナプルナIII峰(7,555m)への登頂に成功し、国際的な登山家としての一歩を踏み出しました。
エベレスト登頂への挑戦
1971年、田部井さんたちは世界最高峰エベレスト(8,848m)への登山許可をネパール政府に申請し、1975年の登山許可が下りました。許可が下りるまでの3年間、彼女たちはスポンサー集めに奔走し、トレーニングや登山計画を入念に練りました。
1975年5月、エベレスト日本女子登山隊の副隊長兼登攀隊長として、田部井さんは過酷な条件の中で登頂を目指しました。テントを飲み込むほどの雪崩や高山病の続出など、続行を危ぶまれるトラブルにも直面しましたが、最終的に頂上アタックメンバーに選ばれた田部井さんはシェルパ一人と共に頂上を目指しました。
「一歩一歩を確かめるように足を動かし、頂上を目指しました。そして困難の末に頂上にたどり着きました。喜びで熱いものが込みあげてくるはずでしたが、そこにあふれてきたのは『もうこれ以上登らなくていい』、それが正直な気持ちでした。」
こうして35歳だった田部井さんは、女性として世界で初めてエベレスト登頂を成功させました。日本人としては6人目、世界では38人目の偉業でした。
七大陸最高峰への挑戦
エベレスト登頂後も、田部井さんは世界各地の山々に登り続けました。主な登頂歴は以下の通りです:
- 1979年:モンブラン(ヨーロッパアルプス)
- 1981年:キリマンジャロ(アフリカ)、シシャパンマ(女性世界初、日本人初)
- 1985年:イスモイル・ソモニ峰、スィーナー峰(旧:レーニン峰)、コルジェネフスカヤの3峰を1シーズンで完登
- 1987年:マッキンリー(北米)
- 1989年:アコンカグア(南米)
- 1991年:ビンソン・マシフ(南極)
- 1992年:カルステンツ・ピラミッド(オセアニア)
1992年、オセアニア大陸最高峰カルステンツ・ピラミッドへの登頂により、女性では世界初の7大陸最高峰登頂者(セブンサミッター)となりました。この記録は世界でも当時6人目という快挙でした。
「各大陸の頂点に立ち続けた田部井さんは1992年には女性で世界初の7大陸最高峰登頂者の記録を打ち立てる。しかし、それは決して記録を作るための登山ではなかったと言う。登ってみたい山があった。そのために黙々と準備し、実際に登った結果としてただ世界記録になったに過ぎない」
田部井淳子さんの環境保全活動と社会貢献
田部井さんは登山家としての活躍だけでなく、山岳環境の保全活動にも力を注ぎました。1990年に山岳環境保護団体「日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)」を設立し、エベレストなどでのゴミ問題に取り組みました。
清掃登山を実施するなど、自然環境保護に積極的に取り組んだ功績により、2007年には環境保全功労者として環境大臣賞を受賞しています。
また、東日本大震災後には被災した高校生たちと共に富士山に登るなど、登山を通じた社会貢献活動も行いました。
田部井淳子の人生哲学と名言
田部井さんの登山と人生に対する考え方は、多くの人に影響を与えています。彼女の言葉からは、困難に立ち向かう姿勢や人生の楽しみ方を学ぶことができます。
好奇心を原動力に
「なぜ山に登るか」と問われたら、「知らない場所があるからだ」と答えます。あくまでも一人の登山愛好者として、未知の世界に対する「行きたい、見たい、知りたい」という旺盛な好奇心が原動力となっています。
田部井さんは「挑戦」や「征服」という言葉よりも、「好奇心」を大切にしました。彼女にとって登山は自分の限界に挑戦するストイックなものではなく、新しい世界を知る喜びでした。
困難への向き合い方
「山は天気がすぐに変わります。突然悪くなることもよくあります。けれどそんなときほど腰をすえて待つ大切さを知ってきました。待てばいずれ悪天候も過ぎ去ります。登山では少々のことが起こっても動揺しないで『あせらず待とうよ』と仲間に声をかけるようにしてきました」
困難に会えば待つ。そして同じ待つなら、困難自体を「めったに体験できないこと」と考え、前向きな姿勢でその困難さえも貴重な体験として受け止める姿勢を大切にしました。
人生の価値観
「人生は、8合目からがおもしろい」
この言葉は、田部井さんの人生観を表す名言として知られています。困難を乗り越えてこそ見える景色や体験の価値を大切にしていたことがわかります。
「いい経験こそ人生の貯金」
物質的な豊かさより、経験の豊かさを重視する田部井さんの価値観を表す言葉です。彼女は登山のためにお金を使うことを惜しまず、おしゃれなどには無頓着だったといいます。
生きることへの姿勢
晩年、がんと闘いながらも登山を続けた田部井さんは、こう語っています。
「ひとりひとりに与えられた人生の時間というのは、限りがあります。自分が残せるものといったら、お金や物ではなくて、毎日毎日の積み重ね、つまり自分の歴史が自分に残せるものなんだと思います。私は、本当に自分がやりたいと思っているものがあるから、それを悔いなくやり遂げたい。ああ、生まれてきてよかった。そんな風に毎日という歴史を積み重ねていきたいんです。」
田部井淳子の遺産
田部井淳子さんの死後、彼女の名前を冠した「一般社団法人田部井淳子基金」が設立され、彼女の精神を受け継いだ活動が続けられています。また、2025年秋には、女優の吉永小百合さん主演で田部井さんの生涯を描いた映画「てっぺんの向こうにあなたがいる」が公開される予定です。
田部井さんは生涯で76か国の最高峰・最高地点に登頂し、女性登山家として不可能を可能にした先駆者であり、環境保全活動家、そして人々に勇気と希望を与える存在でした。その姿勢は、登山を愛する人々だけでなく、困難に立ち向かうすべての人々の心に生き続けています。
田部井淳子さんのまとめ
田部井淳子さんは、女性として世界初のエベレスト登頂者、7大陸最高峰制覇者として世界的に知られる登山家でした。しかし彼女の真の偉大さは、記録を追い求めたことではなく、純粋な好奇心と山への愛情を持ち続け、困難を乗り越える強さと知恵を持ちながらも、謙虚さを失わなかった人間性にあります。
「山が好き。人間は、もっと好き」と語った田部井さんの言葉は、彼女の人生哲学を象徴しています。山を愛し、人を愛し、そして自分自身の人生を心から楽しんだ田部井淳子さんの生き方は、現代を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれるでしょう。